七年祭に(式年祭)ついて
一月より各地区から若連中(お囃子や太刀振りの芸能を披露する人達)や踊り子の皆さまが稽古始めのご祈祷においでになっています。
これはお祭の奉納芸の練習を始めるにあたり、怪我なく無事に進みますようにという気持ちを込めてのお参りです。
七年祭の由来は古く一五六九年(永禄十二)に初めて行われたという記録があります。
時代は戦国の世でこの地は若狭国の地頭、武田氏からの命を受けた逸見昌経が治めていました。
昌経は領民たちの生活が上向くような仕組みをいろいろ考えて実行し、領民たちからは親しみを込めて「逸見さん」と呼ばれるような人だったようです。
武術にも秀でていた昌経は織田信長からもその力を認められ、京都の馬揃え(信長が自分の力を誇示するために行なった武将たちのパレード)にも参加する猛将でした。
しかしその後、信長の不興を買ったことで蟄居(外出を禁じられる)を言い渡されてしまいます。
その身を不憫に思った領民たちが昌経のために、京の祇園会を真似たお祭りをやってみせたと伝えられています。
祇園会と同じ性格を持つこの祭りは十二支のうち巳と亥の年に行われ、祭が催行された年を入れて数えて「七年ごとに行われる祭」として七年祭と呼ばれるようになりました。
今回の動画ではこの祭に対して、今、私が思うことを述べております。
二月吉日