狛犬研究 テーマ1


丹後の狛犬と越前狛犬 ~狛犬様式の伝播~

 はじめに

 大阪で育った私にとって狛犬とは、団子鼻でずんぐりした「浪速狛犬」のイメージで、それが若狭に住むようになり、 ローソク型の大きな立尾の出雲式狛犬と出会い、 狛犬探し隊に入会して注意深く境内を観るようになってからは、 おかっぱ頭のおしゃれな鬣なのに、反面顔はブサカワの狛犬に 出会う事が多々あり、 それはほとんどが小型の狛犬で、大体が神殿の中に潜んでいるように置かれていることが多く、 かくれんぼしている狛犬さんを見つけた時はすごく嬉しくなります。


 狛犬を探しながら日本各地を旅していると、小さな狛犬に出会う機会が福井には多くある事に気づきました。

 なぜ石造の小型狛犬の奉納が他県よりも多いのか、丹後、越前、若狭にはどういう小型狛犬が奉納されて、 どう伝播され全国に広がったのかを探っていきたいと思います。

【丹後の狛犬】

 丹後では室町時代に 木造と並んで石造の狛犬も造られ、 石造では最古の銘を持つ狛犬が、文和4年 (1355)京丹後市の高森神社に伝わっている。
 国産の石で日本人の手により作られた、最古のものであると伝わる、 籠神社の狛犬(伝鎌倉時代)と造型がよく似ている。




 この狛犬は明治大学の川野明正教授が発表した、シナ海の石獅子・石狗にも形態が共通するような 「向天眼」(天向き上付き眼)が特徴の狛犬で、額が低く扁平な顔立ち、前脚には筋肉の筋が刻まれ、背骨から腰骨でくびれがあり三又の尾を持っている。

 鬣の巻き毛は木造の狛犬からの流れを彷彿するような表現ですが、 同じ年代に作られた木造の狛犬よりは顔の割合が少なく、小顔の狛犬に仕上がっている。


 共通点も多い丹後狛犬ですが、造形的にそれほど似ている訳ではいので、 同じ石工が造ったというよりも、数人の石工が手掛けたものではないかと推察され、 現在数十点しか確認できていないので、室町時代の短い間に作られ、奉納されたものだと推測する。

 狛犬が造られた石材については、京都府教育庁文化財保護課の吹田直子氏によれば、 安山岩質凝灰岩であるが、砕石場所の判明には至っていないとの事。


 丹後で産出される石は、由良川付近で採れる由良石や宮津市野田川町の玉野木石が主で 花崗岩の為加工がしにくく、他の地域から北前船や廻船などに乗せられて 加工に適した石が多く運ばれてきている。

 丹後地方に運ばれてきた主な石材は福井県高浜町の「日引石」(安山岩質凝灰岩)、 瀬戸内(四国)で採れる「和泉砂岩」、兵庫県高砂の「竜山石(宝殿石)」(凝灰岩)、 福井の「笏谷石」 (緑色凝灰岩)で、新潟の方からも石が輸入されていました。

【竜山石(宝殿石)について】




 宝殿山は凝灰岩の山で、 竜山石(宝殿石)といわれ、加工しやすい石の為、日本各地に運ばれていきました。 古墳時代に奈良県まで運ばれて、石棺に使われています。

【笏谷石の輸送】


 足羽山から切り出された石は三尺×一尺六寸×六尺の大きさに切り揃え、山の目の前に流れる足羽川で石積船に乗せられて、日野川 から九頭竜川へ出て、三國湊に持ち込まれました。そこからは大きな廻船「北前船」に乗せられて、全国に運ばれていきます。
舞鶴市 麻良多神社
舞鶴市 大川神社
舞鶴市 高倉神社













 本来「北前船」という特定な船形は存在せず、伝えられているところでは、江戸時代、 瀬戸内海沿岸から長州下関を通り対馬海流に乗り日本海に入ることを「北前」といい、 船形にはとらわれず日本海沿岸を北上していった船を「北前船」と呼びました。
 丹後では船で運ばれた笏谷石と共に一緒にやって来た、笏谷石製の越前狛犬も複数の神社に奉納されている。


【大川神社のレンタル狛犬】




 京都府舞鶴市の大川神社さんは、「金色の鮭に乗った霊神が左手に五穀を、 右手に蚕種を携えてあらわれた」という御祭神をお祀りする神社です。

 神様の使役は害獣から護ったとされる狼で、作物を食い荒らす鹿や猪、 鼠等の害獣が出て困った時に、氏子らは右の写真のような手のひら程の狼像(狛犬)を神社から借り受け、 お祀りし、一年経つと神社へ返すという風習があり、 今でも講として、集落で小型の狛犬や護符を貸し出している。